三神尊志(みかみたかし)
昭和55(1980)年生まれ、26歳。
さいたま市見沼区南中丸在住。
民主党さいたま市政策委員(見沼区担当)
民主党埼玉第1区総支部幹事
見沼区の環境保全と快適な環境作りへの取組みを実施。親子で行う畑仕事を通じ自然体験ができる環境を提供。
こども・若者の社会参加促進活動を実施。
内閣府・埼玉県と協同し、地域レベルでの国際交流促進活動を実施。
約一ヶ月間、スウェーデンを視察・研究。市民の社会参画に関する状況を調査。
母親によると「滑り台の順番待ちの列に割り込む年上の子を注意するような、正義感の強い子」だったとのこと。
芝川のほとり、見沼田圃の真ん中に建つ小学校。一学年200人超、全校生徒1200人以上のマンモス校だった。
学校帰りにザリガニを取ったり、笹舟を農業用水に浮かべて追いかけたりと、見沼田圃の自然を体感しながら育つ。遊び場には事欠かなかった。
6年生のときには『原始人クラブ』に所属。田圃からイナゴを捕ってきて佃煮にして食べたり、芝川で魚を釣ったり、木を使った火おこしに挑戦してみたりと、見沼田圃の自然の中にある学校ならではの活動を経験。
テニス部に所属。1年生のとき団体戦メンバー(補欠)に抜擢され、先輩に帯同し県大会へ行く(しかし出場機会無し)。自力での県大会出場を決意し、仲間と共に練習に励んだものの県大会出場の夢は叶わなかった。3年生のときに部長を務める。
また生徒会副会長を務める。
活発な学校行事や、男子校特有の雰囲気に惹かれ入学。
入学当初、部活動は硬式テニス部に入部することを考えていた。しかし、たまたま声をかけられ半強制的に連れ込まれた応援団の部室にて洗脳を受け、その場で応援団への入団を表明。
「応援団が、他の運動部よりヌルい練習をしていたのでは、運動部を応援をする資格はない」というモットーの下、上級生から課せられる過酷な日々の練習を乗り切る。夏の野球応援では一日で体重が2キロ近く減ったこともある。
各運動部の試合の際の応援だけでなく、学校行事の裏方・盛り上げ役としても大いに活躍した。3年生の時に団長を務める。
また、生徒会会長を務める。自分の勉強そっちのけで、名実共に学校活動に力を注いだ三年間だった。
法学部に入学。当初は、国際公務員(国連職員)になりたいという夢を持っていた。在学中は、内閣府の国際交流事業やスタディーツアー、国際問題研究会など、国際交流関係の活動に積極的に参加。学生時代に訪問した国は、スウェーデン、インド、ベトナム、アメリカ、イタリア、タイなど。
海外の学生との交流やディスカッションを重ねる中で、「地元を愛し、誇りに思う気持ち」や「人生の中で、最終的には地元の為になることをしたいという想い」を海外の学生は強く持っていることを知る。そのような考えに触れ、逆に自分は「地元のことを愛していないし、誇りにも思っていない」ということに気づく。それから「さいたま市を愛し、誇りに思えるようにするには、何をすればいいか」についてを考え始めるようになる。
また、大学所在地の隣接市である多摩市にて市長選挙が行われることになり、学生有志が中心となって市長選挙の公開討論会を開催することを計画、実行委員メンバーとなる。その活動が縁でNPO法人Rightsに入会し、子ども・若者の政治・社会参加促進の活動を行うようになる。その活動を通し、子ども・若者世代が、政治に対して「諦め」を抱いていることを実感する。
自分の地元の実情と政治の現場について学ぶため、地元の民主党衆議院議員・武正公一代議士の事務所の門をたたき、武正後援会青年部の幹事として地元活動や選挙運動の手伝いを積極的に行う。
これらの活動で得た経験を原点として、「自分が地方政治に携わり、誇りを持てるさいたま市の実現と、政治の刷新に取り組みたい」という想いを強く抱くようになる。
まずは、「民間の立場から地方政治に携わることのできる仕事をしたい」と考え、日立製作所に入社。志望どおり『地方自治体向けコンピュータシステム』の営業部署に配属される。東京都内の地方自治体への営業を担当。自治体職員との営業交渉や、商品(市民サービス用のシステム)の仕組みを覚える中で、地方自治体の内部事情や、自治体職員から見た地方議員の立場などを学ぶ。
2007年の統一地方選挙が間近に迫る2006年夏、「いま、どうしても、さいたま市政に携わりたい」という強い気持ちを抑えきれず、周囲の反対を押し切って、会社を退社。
武正公一代議士の尽力もあり、民主党公認を得る。
民主党埼玉県第一区総支部幹事、民主党さいたま市政策委員(見沼区担当)として、地元見沼区にて鋭意活動中。